WEBで記事が公開されていないため、2009年7月22日中日新聞夕刊から引用しました。
引用始め
日中戦争が終わって64年。中国大陸では今も戦争の傷跡を背負って生きている人々がいる。従軍した後も中国にとどまる100歳の日本人医師、そして日本兵と元従軍慰安婦との間に生まれた男性。それぞれの「終わらない戦後」を追った。
100歳の今も治療で贖罪 軍属やめて終戦後医師に
中国山東省済南市に山崎宏という百歳の老人がいる。日中戦争のただ中、軍用物資保管人として従軍したが、家を焼き打ち、金品を略奪する軍人の振る舞いに耐えられず退職。終戦後は「贖罪のため」と現地に残り、医師になった。以来、半世紀。日本国籍の"赤ひげ先生”は、きょうも中国の医療の現場に立つ。
「先生、二日前からこの子の熱が下がらないんです。下痢もひどいんです」。古い集合住宅の一角にある「七里山診療所」。生後四ヶ月の晶晶ちゃんを抱いた母親の多広斧さん(二一)が、耳がかなり遠くなった「山先生」の耳元で大声で訴えた。
うん、うん、とうまずく山崎さん。晶晶ちゃんのおでこに自らのおでこを寄せた後、聴診器を胸へ。次に、長さ5センチほどの鍼を取り出すと「ちょっと我慢してね」。晶晶ちゃんのひざ下の下痢止めのつぼに刺した。
山崎さんは明治末期の一九〇八年十一月、岡山県落合町(現真庭市)生まれ。盧溝橋事件直後の三七年、岡山駐屯の歩兵第十連隊とともに中国に渡った。「軍属としては失格だが、侵略戦争についていけなかった」と一年でやめ、済南で鉄道員になった。
戦局が激しくなり、四四年に現地召集されたが、戦地に赴くことなく河南省で終戦を迎える。その後、着の身着のまま済南まで千キロ以上を歩いた。道すがら、なけなしの食べ物を分けてくれる中国人たち。「敵国の人間にまで・・・」。涙が止まらなかった。
済南では、終戦前に三万人いた日本人の大半が引き揚げていたが「中国で罪を償おう」と決めていた。五二年に医師となり、地域医療一筋。貧しい患者からは治療費を受け取ったことがない。
「金持ちでも貧しい人でも、中国人でも日本人でも分け隔てなく接する父を尊敬しています」と娘の雍蘊さん(六二)。山崎さんと血のつながりはないが「父は私の誇りです。」
日中国交回復後の七六年、山崎さんは初めて日本に帰国した。実家では戦死したことになっており、仏壇には位牌が遺骨代わりの石三個とともに安置されていた。
「ただ、涙があふれるばかりだった」という日本滞在中、知人が月給三十万円の仕事を探してくれたが、丁重に断った。気持ちはやはり中国にあり、最新の心電図計や科学技術に関する本を買い込んでいた。済南の病院と図書館に寄付するためだった。家族のために持ち帰ったのは中古の14インチカラーテレビだけだった。
医療以外でも中国に尽くした。山東大学で日本語をボランティアで教え、済南市と和歌山市の姉妹都市締結の橋渡しもした。昨年の四川大地震の際は被災地に三千元(約四万二千円)を寄付した。
今夏で、戦後六十四年親兄弟も戦友もこの世を去り、自らも先がそう長くないことは分かっている。五年前、検体の申請書に判を押した。中国への最後の献身だと思っている。
七里山診療所には連日、お年寄りや子ども連れがひkkりなしにやってくる。
「山先生の腕は確か。経験が豊富だもの」とは王小漫さん(八五)。ひ孫まで四代にわたって頼ってきたという。「すべては中国人民のために、ですよ」と山崎さん。診察室には、順番待ちの長い列ができていた。
(中国東部済南市で、朝田憲祐、写真も)
「日本鬼子」と蔑視され・・・ 「父は日本兵、母は元慰安婦」
友達と魚釣りをした九歳の時だった。
「よく魚が釣れる私の釣りざおを友達が欲しがった。私が断ると「日本鬼子め」と言われた。なぜ日本人の蔑称で呼ばれるのか不思議だった」
山水画の世界そのままの奇岩が連なる中国・桂林から南へ百キロの茘浦県。泥で固めた小さな家で、羅善学さん(六三)が半生を振り返った。幼い時から、父親が母親に「日本兵の子なんか産みやがって」とどなるのを聞いた事がある。よく意味は分からなかった。その後、小学校で抗日戦争の映画を見て、日本鬼子の"正体"を知った。
「姉や弟妹はコメを食べても、自分だけはイモが混じっていた。私だけ小学校を中退させられ、牛飼いをさせられた。その理由が分かった」
母親の葦紹蘭さん(八三)も忌まわしい記憶を語る。「自分は生きて帰れない、死ぬんだと思った」。日本軍が攻めてきた一九四四年年、村人と一緒にほら穴に隠れた時、日本兵と遭遇した。背負っていた一歳の娘のおんぶヒモを銃剣で切られ、娘が地面に落ちて泣いた。逃げるのをあきらめ、車に乗せられた。車には既に数人の中国人女性がいた。
日本軍の駐屯地で軍医に身体検査をされた後、慰安婦にされた。「一日に五、六人ぐらいの相手をさせられたよ。兵隊を直接見てはいけなかった。避妊具を使う人もいるし、使わない人もいた。つらかったけど、娘のために死ぬわけにいかなかった」
管氏が緩くなった三ヶ月後、早朝にトイレに行くふりをして、娘を抱いて逃げた。妊娠には気づいていたが「赤ん坊に罪はない」と羅さんを出産する。夫は「お前が生きていればいい」と葦さんを迎え入れたが、村人に「日本兵の子を産んだ」と言われ、母子につらく当たるようになった。
生い立ちを知った羅さんは、他人と話すときには顔を伏せるようになる。中国の農村では珍しく、今も独身だ。父は亡くなり、親せきから委託された牛飼いをして、老いた葦さんを養う。羅さんははだしで生活している。
「母を恨んだことがあったが、今は日本人を恨む」と羅さん。本当の父親に会って「母を苦しめて、あなたは何も思わないもか」と尋ねたいという。強い口調で話した後、両手を合わせて記者に「ごめんなさい。これは歴史の問題です」と少し笑顔を見せた。
「あなたは自分を日本人だと思うか、中国人と思うか」。最後に尋ねると、羅さんはしばらく考えて短く答えた。「私は毛沢東主席が指導した、この国で生まれた」
(中国南部荔浦県で、平岩勇司、写真も)
真実味のある証言 従軍慰安婦問題に詳しい中央大学の吉見義明教授(日本近現代史)の話
元慰安婦の女性が日本兵との間の子どもを育てた話は珍しい。葦さんが捕まったという一九四四年は、敗色濃厚な日本軍が中国戦線の局面打開のため、桂林周辺でも多くの部隊を展開させた時期に重なる。当時、慰安所で粗悪なコンドームの使用を嫌がる日本兵も多かった。何度も妊娠し、生まれたこともを現地の人に託した慰安婦もいる、葦さんの証言はあり得ることだと思う。
引用終わり
最近ウイグルの事件や中国政府公認マルウェアのような、正直に記事を書いた埋め合わせ記事のようです。まさに中日新聞モード全開です。
最初の山崎さんの件は昨年10月頃から中国メディアで報道されたものとほぼ同じ内容ですね。
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2009-06/24/content_18007684.htm
http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2008&d=1011&f=national_1011_002.shtml
http://headlines.yahoo.co.jp/cm/main?d=20090701-00000207-scn-cn
こちらの記事では軍医として従軍と書かれていますね。軍医だったのか、それとも軍用物資保管人だったのかどちらが正しいんでしょうか?山崎さんを批判するつもりはありませんが、どちらの役職でも最前線での業務ではありませんよね。軍人の戦場での振る舞いを直接見ていたわけではないと思うんですが、どうなんでしょう。日本へ帰ったときのエピソードも中国メディアの記事とほぼ同じですし、もう少し違った話を書いて頂けると参考になるのですが。
二つ目の記事もインターネットで有名ですよね。
http://sakura4987.exblog.jp/6090419/
インターネット上では「韋紹蘭」という漢字で紹介されているケースがほとんどです。
http://www.blackchina.info/archives/1377
私には中国語はさっぱりですが、Youtubeの映像を見て発言を分析されている方のブログがあります。
さらには吉見義明教授ですか。既定路線すぎて突っ込むスキがありません。本社のお偉いさんがインターネットで見つけた格好の件を、中国現地記者に「取材してこい」と指示する様子が目に浮かびます。現地記者の皆さんには同情を禁じ得ません。


by souya951
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